まつり堂模型店

ふたつの「占守」― 千島列島の島と日本海軍の海防艦

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ふたつの「占守」― 千島列島の島と日本海軍の海防艦

ふたつの「占守」― 千島列島の島と日本海軍の海防艦

2025/08/24

千島列島の歴史


北海道の北東からカムチャツカ半島にかけて連なる島々、それが千島列島です。火山活動によって形成されたこの列島は、寒流と暖流が交わる豊かな漁場であり、古くからアイヌ民族をはじめとする人々が暮らしてきました。

江戸時代には松前藩やロシア帝国が進出し、近代になると日本とロシアの間で国境をめぐる外交交渉や戦争の舞台ともなりました。
 

第二次世界大戦後はソ連が占領し、現在もロシア連邦の一部として統治されています。そのため、戦前と戦後で大きく歴史が変わった地域のひとつと言えるでしょう。
 


占守(しむしゅ)島とはどんな島か


千島列島の最北端に位置するのが占守島(しゅむしゅとう)です。面積は約388平方キロメートルで、山岳と湿地が広がり、霧や荒天の多い厳しい自然環境を持っています。
 

戦前は日本領で、漁業と共に軍事的にも重要視されていました。特に1945年8月、ポツダム宣言受諾後に起こった「占守島の戦い」では、日本軍とソ連軍が激戦を繰り広げました。

終戦後の戦闘であったため「最後の本土決戦」とも呼ばれています。この戦いののち、島はソ連に接収され、日本人住民は本土へ引き揚げさせられました。
 

現在はロシアのサハリン州に属し、軍事拠点としての役割が強く、一般人が訪れることは難しい島となっています。
 


占守島の歴史


占守島の歴史をひも解くと、日本とロシアの国境最前線としての姿が浮かび上がります。
 

・古代~江戸時代:アイヌの生活の場。松前藩やロシアの探検隊が接触。

・近代:1875年の樺太・千島交換条約により、日本領となる。

・太平洋戦争中:日本の北方防衛の拠点として重要視。

・終戦直後:ソ連軍の侵攻を受け、占守島の戦いが勃発。双方に甚大な被害をもたらした。

・戦後:島はソ連領となり、現在に至る。
 

このように、占守島は国境のはざまで常に歴史の荒波にさらされてきた島なのです。
 


海防艦「占守」について


そしてもうひとつの「占守」が、当店の店頭にある日本海軍の海防艦「占守(しゅむしゅ)」です。
 

海防艦「占守」は、太平洋戦争期に建造された占守型海防艦のネームシップ(1番艦)。1940年に竣工し、対潜哨戒や船団護衛を主任務としました。主砲や爆雷を備え、輸送船団を米潜水艦から守るために活躍したのです。戦時中の日本にとって、海防艦は縁の下の力持ち的な存在でした。
 

「占守」という艦名は、まさに千島列島最北の島・占守島に由来しています。国境の島を名に冠し、日本の海上輸送路を守ったこの艦は、軍艦の華やかな主力艦とは異なりますが、歴史を支えた重要な存在でした。
 


まとめ ― ふたつの「占守」


千島列島の北端に位置する占守島と、その名を冠した海防艦「占守」。片や国境をめぐる戦いの舞台、片や輸送船団を守った影の護り手。二つの「占守」は、いずれも日本の近代史と戦争の現実を語る存在です。
 

まつり堂模型店の店頭に並ぶ海防艦「占守」の模型は、その歴史を手に取って感じるための小さな入口です。模型を眺めながら、遠い北の島と、そこで繰り広げられた歴史に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

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