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徴用船の悲話 ─ 海に消えた民間船と人々の運命

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徴用船の悲話 ─ 海に消えた民間船と人々の運命

徴用船の悲話 ─ 海に消えた民間船と人々の運命

2025/09/11

ピットロードの「特設巡洋艦 報国丸」について記事を書いたところ、戦時徴用戦について大きな興味がわきましたので、いろいろとネットの記事を読んでみました。以下は、ソースがネットですので、その点を含んでご一読ください。

前の「特設巡洋艦 報国丸」のブログで書いた通り、第二次世界大戦は、数えきれない民間船をも戦場に巻き込みました。国が「徴用」という形で船舶を取り上げ、大型客船から小さな漁船、さらには“ポンポン船”と呼ばれる小型船までもが戦争の道具に変えられていったのです。

戦前は海外航路で活躍した大型客船も次々に軍に組み込まれ、大阪商船の「浅間丸」は特設運送船として徴用され軍需物資の輸送に従事し、貨客船だった「阿波丸」は赤十字標章を掲げた中立保護船となったものの1945年に、卑怯にも米潜水艦の魚雷攻撃を受け、2,000名を超える犠牲者を出しました。横浜港から南方へあるいは北米へ貨物、観光客や商人を運んでいた平和な船が、戦争の道具となり多数の命を呑み込んで海に消えたのです。
 

さらに戦局が悪化すると、小型漁船やポンポン船までも徴用され、船体に軽機関銃や小銃、粗末な無線機を積まされ、対潜哨戒や沿岸輸送、離島との連絡任務に駆り出されました。これらの小船を操船したのは、ほとんどがもともとの船員たち──船長、航海士、機関士、そしてボイラーを焚くカマタキまで──で、彼らは軍属として扱われつつも本質的には民間人でした。

船には海軍の監督官や武装要員が同乗し、命令系統は軍に握られ、民間船員は否応なく前線へ送り出されました。木造の小さな船は波に弱く、潜水艦や航空機の攻撃に遭えば逃げ場はありません。米軍からは「軍事目的に使われる船」として容赦なく狙われ、実際に機銃掃射や爆撃で沈められた例も多くあります。「北洋漁業団の徴用船団」はアリューシャン方面や千島列島の補給任務に投入され、多くが米潜水艦や嵐に呑まれて消息を絶ちました。出港したまま帰らない船を待ち続けた家族の無念を想うと胸が締め付けられます。
 

太平洋戦争で日本が失った商船は2,000隻以上、トン数にして約860万総トンに及ぶとされ、沈没によって失われた船員や徴用された民間人の命は6万人以上に達しました。その数は一個師団どころか軍全体に匹敵する規模であり、軍艦として記録に残らず慰霊碑すらない船も多く、今なお海底に眠ったままの人々が数えきれないほど存在します。

氷川丸はまつり堂模型店に客船自体のキットと、病院船時代のキットがあります。氷川丸は1930年就航の日本郵船の豪華客船で戦時中は病院船として徴用され、赤十字の標章を掲げて負傷兵を運び、戦禍を免れた数少ない幸運な船で現在も横浜港に保存されています。

出雲丸は大阪商船の大型タンカーで海軍に徴用され燃料輸送に従事しましたが1944年に米潜水艦の攻撃で沈没し、日本の戦力に大きな打撃を与えました。靖国丸は日本郵船の貨客船で特設潜水母艦に改装され潜水艦隊の支援を担いましたが1944年に米潜水艦の雷撃で沈没しました。商船が軍用艦の役割まで背負わされた象徴的な例といえるでしょう。


こうした悲劇は日本だけでなく世界でも繰り返され、イギリスでは「クイーン・メリー号」が豪華客船から兵員輸送船に改装され「グレイ・ゴースト」と呼ばれ、数十万人の兵士を運んだものの輸送中の衝突事故で千人以上が犠牲になりました。同じく「クイーン・エリザベス号」も兵員輸送船として従事し、戦後は再び大西洋航路に復帰しました。アメリカの「ノーマンディー号」は徴用後ニューヨーク港で火災事故を起こし沈没するなど、平和の象徴であった豪華客船が次々に戦争に呑み込まれていきました。
 

戦時徴用船の歴史は単なる数字や艦船名簿の話ではなく、一隻ごとに日常があり、船員の暮らしがあり、待つ家族がいました。それが戦争という巨大な流れに呑み込まれ帰らぬ姿となったのです。

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