空母「信濃」──戦没日によせて思う、わずか一日の航海と沈没のいきさつ
2025/11/29
今日 11月29日 は、空母「信濃」が太平洋の海に姿を消した日です。
模型の世界では超ド級の存在感を放つ艦ですが、その実際の歴史はあまりに短く、そして劇的でした。今回は戦没日に合わせ、沈没のいきさつに絞ってその経緯を振り返ってみます。
■ 竣工からわずか「10時間」の初航海
「信濃」は、戦艦「大和」型の三番艦として建造され、途中で空母へと改造された艦でした。排水量約7万トン。第二次大戦中に実戦配備された空母としては史上最大級の巨艦です。しかし、その巨大さとは裏腹に、完成までの道のりは困難の連続でした。
1944年11月19日に公試も十分に行わないまま、ほぼ“突貫工事”で竣工。
竣工したばかりの艦はまだ防水区画が未完だったうえ、電気系統や通風設備なども仮設状態。さらには搭載機や乗員の多くも整っていませんでした。「まずは横須賀へ移動し、仕上げと整備を行う」という消極的な意味での初航海だったのです。
■ 遭遇──米潜水艦「アーチャーフィッシュ」
その航跡を、米潜水艦 USS Archerfish(アーチャーフィッシュ) が捉えます。
同艦は偶然「信濃」を発見したのではなく、「なにか大型艦が動く」との情報を受けて付近を哨戒していたと言われています。もちろん「信濃」の存在が知られていたわけではありません。しかし、影のように巨大なシルエットを確認し、アーチャーフィッシュの艦長ジョセフ・F・エンライトは「空母だ」と判断します。
11月29日午前3時頃、ついに雷撃位置を確保。
アーチャーフィッシュは 6本の魚雷を発射し、うち4本が命中。そのすべてが「信濃」の右舷側に集中しました。
■ 巨大艦ゆえの“弱点”
「信濃」は戦艦「大和」と同じく、強靭な防御力を誇る設計でした。
しかしこの時点では防水扉のしまりが甘く、主軸の防水区画も未完成。工事担当者すら「横須賀へ回航してから本番の仕上げをする予定だった」と語っています。
魚雷が命中した瞬間、巨大な艦内に海水がドッと流入。
適切に閉鎖されるべき区画が海水で次々と満たされ、被害は想定よりも速く拡大しました。
また、仮設状態だった通風ダクトからも海水が逆流し、機関区の浸水をさらに悪化させます。加えて、経験の浅い乗員が多かったため、ダメージコントロールの統率もとれないまま混乱が広がりました。
巨大であるがゆえ、小さな損傷でも流入量は膨大になります。
そして巨大な艦体は浸水すると浮力を回復するのが極めて困難。
まさに構造上の“負の側面”が一気に噴出した形でした。
■ 傾斜の進行と、最後の瞬間
雷撃後、「信濃」は必死の応急処置で航行を続けました。
しかし右舷への浸水は止まらず、艦は徐々に右側へ大きく傾いていきます。
午前5時過ぎには、傾斜は約15度。
さらにバラスト調整も効果が薄くなり、浸水範囲は機関区全体へ拡大。
午前9時頃には、もはや自力回復は不可能と判断されました。
そして 1944年11月29日 午前10時18分──
空母「信濃」は、紀伊半島沖の深い海へゆっくりと沈没しました。
竣工からわずか10日。
初航海から わずか10時間ほどの最期でした。
■ なぜ「信濃」の沈没は語り継がれるのか
多くの軍艦が戦没した中で、「信濃」がしばしば話題に上るのには理由があります。
世界最大級の空母であったこと
戦艦「大和」型の船体を転用した特異な存在だったこと
竣工から極めて短期間で沈没したこと
不完全な状態での回航という“構造的悲劇”があったこと
米潜水艦による単独撃沈例としても最大級であること
巨大な船体がたった4本の魚雷で沈んだ──
という印象的な事実もまた、多くの人の記憶に刻まれる理由でしょう。
■ おわりに──模型が語り継ぐもの
写真の模型キットにも描かれているとおり、「信濃」は堂々たる姿を残しています。
実艦は短い生涯でしたが、模型の世界ではその存在感は決して短くありません。
戦没日である今日、あらためてその航跡を振り返り、巨大艦のドラマを思い出してみるのも良い機会だと思います。
もし店頭で「信濃」のキットを手に取られる方がいれば、ぜひその歴史の背景にも思いを馳せてみてください。
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